2016年03月05日

平均年齢36.4歳の若い5人の杜氏+蔵元が、酒蔵を継ぐ話!



山内聖子著「蔵を継ぐ」(双葉社 1400円+税)

蔵を継ぐ写真.JPG

私は地震に対して異様なまでの感覚を持っている。 それは2004年の直下型の中越地震を経験しているから。 その前の阪神・淡路の直下型地震も被害は酷かった。 たしかに鉄筋が入っていない基礎があったり、通し柱は3.0~3.5寸が通常。 このため、ほとんどの通し柱が折れ、在来木軸は1階が軒並み押潰されていた。 被害者には申し訳ないが、私は材木屋と工務店の無知がもたらした人災に見えた。
これに対して、豪雪地の中越は1階がほとんどRC造で、被害がほとんどなく、通し柱は4~5寸。
それなのに、震度7強の烈震地の武道窪では17戸のうち倒壊していないのはスーパーシェルの1戸だけ。 倒壊率は94%。 また田麦山では、100戸のうち倒壊していないのは10戸だけで倒壊率は90%に達していた。
このため、直下型の地震の怖さを、嫌というほど知らされた。 しかも首都圏では30年以内に70%の確率で直下型が襲ってくるという。 そして、前から 「南海トラフ地震」 のことが叫ばれている。 この時、岩波新書が山岡耕春著の「南海トラフ地震」を発刊した。 この内容を熟読し、各県の被害状況も調べたものを、ブログとして記載したいと考えていた。
ところが、わが女房殿がそのブログを見て、「いまさら南海トラフ地震のことを書いても、誰が読むのてすか」 とのたもうた。
そこで、今朝から急いで書き始めたのがこのブログ。 ところが、掲載する時に間違えて、全部消してしまった。 あわてて書き直しているところだが、そんな訳で夕方になることをお許しいただきたい。

この著は、今どき酒蔵を継ごうと言う、30代の若い女性1人を含めて、5人を取材しているもので、大変な感銘を受けたもの。
本来は、この本を紹介するのではなく、私が地場でホームビルダーを引き継ごうとしている若い人々の姿を取材すべき。 
しかし、第一線を退いた私には、若い人々を紹介するチャンスがない。 残念ながら私には、若きビルダーが活躍している現場を捉えることが、難しくなってきている。
紹介する記事があったら、最優先で紹介したいと考えているのだが、この本のように、喜んで跡を継ごうという若者に巡り会うような建築関係の本に出逢えない。 この著作は、ビルダー業界にも共通する問題点が含まれている。 
したがって5人全部を紹介したいところだが、それでは表皮的になるので、福島・会津若松市の宮泉銘醸の宮森義弘氏だけにしぼって紹介したい。

宮森氏は、小学生の時から、「将来は酒蔵をやりたい」 と思っていたと言う。
たしかに、今は世界的に日本酒がブームになってきているが、宮森氏が小さい時は、日本酒の需要が廃れ、斜陽産業だと言われていた。
「子供だから、酒が飲めるわけではない。 小さい時から酒蔵で遊んでいたし、酒蔵を経営してみたかった」 という一心だけ。 そして、小学生の時に、将来宮森氏の右腕となってくれる同級生の山口武久氏を口説き落としている。
「私は将来、酒蔵を経営したいと考えている。 その時には、山口氏も協力して欲しいと考えているのだが‥‥」 と話し、山口氏の約束を得ているから凄い。 山口氏は、現在は製造部長。
「これは」という直感力を持っていたと言うしかない。 これに対して、「ただ単純に、この人と一緒にいたかっただけ。 理由はないけど、その方が2人とってもいいことがあるような気がしただけ‥‥」 という。 そして、中学・高校と同じ学校だったが、宮森氏は東京の大学へ行き、山口氏は仙台の専門学校へ行っている。

大学を卒業し、福島へ帰ろうと相談したら、父親から、「少し待ってくれ」 と言われた。
酒の売れ行きが思わしくなく、会社が赤字のためらしい。
しかし、地元の金融機関は、売れ残った酒も資産として評価してカネを貸してくれる。 つまり、タンク10本が残っていても、負債として勘定するのではなく、売れれば1億円になると評価してくれる。 このため、酒蔵経営の改善が大幅に遅れていた。
帰ってはいけないというので大手企業に就職していたが、母親までが 「跡は継がなくてよい」 と言いだした。 小さい酒蔵で苦労するより、大企業で楽に暮らした方がよいという親心が言わせたもの。
しかし、宮森氏の やいのやいという催促に、「跡は任せる」 といって父が帰宅を承認したのは4年後で、宮森氏が27歳の時。
「跡を任せる」 とはカッコ良いが、実際は父親ではどうにもならぬところまで追込まれたから、責任を一方的押付けたまでのこと。
任された宮森氏は、まず不必要な経費の削減から始めた。 例えば駅前の月々10万円を払っている看板の撤去など。 一歩も引かずに努力した甲斐があって、翌年は6年ぶりに黒字に転換。
この結果を見て、全社員が新社長に協力的になってきた。 
逆境の中で成果を出し、「達成感が得られるのは苦痛ではなく、楽しいことだ」 という若社長の評価は次第に高まっていった。

同社の、主力商品である 「寫楽」 は、新社長が就任した後で、宮森家の本家筋の東山酒造が廃業した時に、譲渡されたもの。 ただし、「寫楽という銘柄名は受け継ぐが、味は替える」 と新社長は公言していた。
宮森氏は、学生時代の冬休みには、いつも酒造りを手伝っていた。 そして、終われば杜氏さんや蔵人とわが社の酒は飲んでいた。 酒が旨いと感じたことは一度もなかった。
「俺はジントニック派で、日本酒はおじさんたちの飲物」 と割切っていた。
ところが、福島へ帰ると決まった時、送別会を開いてくれ、初めて福島産の「飛露喜(ひろき)」
を味わった。 
それは、それまでの日本酒に対するイメージを180度変換させるものだった。
「いままで飲んでいた日本酒は、一体何だったのか?」 と価値観がガラリと一変させるほどの内容を持っていた。
「こんなにうまい酒があったとは? 一体どんな人が造っているのか? どうしても造り手にあって見たい」 と熱望するまでになっていた。 
子供の時の酒蔵の経営に対する関心から、味作りに関心が移行した瞬間でもあった。

宮森氏が「飛露喜」の廣木健司氏に会ったのは、「福島・清酒アカデミー職能開発校」の入学式の懇親会。 駆け寄って、「話をさせて下さい」 と挨拶したら、「君と話すことはない。 これから先も、ずっと無いはず‥‥」 だと言われてしまった。
つまり、今までの宮泉銘醸だと、ほとんど普通酒や本醸造しか造らず、純米はタンク13本あっても1本あれば良い程度。 そんな蔵の息子と話しても意味がない。 会うだけ時間のムダたと言われたということ。 それほど廣木さんは蔵の経営と日本酒造りに命をかけて挑んでいた。 
しかし、そんなことを言われても怯む男ではない。「この人ともっと話が出来る人になりたい」 と対抗心がムラムラ。
そして、「飛露喜」の蔵への通いはじめたが、中を見せて貰えたのは3年すぎのこと。
そして、独学で「寫楽」の開発に勤しんだ。
「俺の日本酒の基本は完全に《飛露喜》。 だが、廣木氏に聞いたことも、相談したしたことも一度もない。 途中から自分で旨い酒とは何だろう? と自問しながら酒造りをしてきた」 と語っている。 つまり、廣木氏は、どこまでも研鑚の相手であり、良い意味でのライバル。

「寫楽」 が完成したのは2007年 (平成19年)。 当初は、県外への販売は全く考えていなかったという。 「タンク1本からスタートしたこともあり、営業活動は全く行っていなかったから」。「寫楽」が3造り目を迎えた頃、「仙台日本酒サミット」へ初出品した。 そしたら、初登場にも関わらず3位に入賞。 業界内で話題になり、全国の酒販店から注目されることになった。
そして、翌年は1位を獲得すると知名度はグングン上がり、マスコミからも注目を集め、「若手の新星」と謳われて人気は日に日に高まっていった。 いわゆる営業の努力なしに全国に販路ができて、生産が追い付かないほどの人気商品に。
宮森氏が、思いを込めて造った酒は、それに比例してファンがどんどん増えている。

2011年の忘れられない東北大震災に宮泉銘醸も被害を受けているが、2014年の世界の最多が参加する日本酒だけのコンテスト「SAKE Competition 2014」 で、純米酒、純米吟醸の部で1位になるという金字塔を打ち立てた。
この表彰式の式場で、廣木氏が「福島の酒は凄いでしょう。 若手が頑張ってくれました」 と言いながら「寫楽」を注ぐ姿かあったという。

福島の蔵継は理想的に回転蒸しているらしい。



posted by uno2016 at 19:42| Comment(0) | 書評(その他) | 更新情報をチェックする
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