2016年08月30日

訂正


下記表の中で、◇時期不明の項目の中で、」「倒壊0棟、大破15棟」が抜けていました。
お詫びして訂正させて頂きます。  uno

◇旧耐震基準     倒壊    大破     小・中破     無被害
   702棟 (36.2%) 225棟   124棟     322棟      31棟
◇新耐震基準
   800棟 (41.2%) 73棟    78棟      462棟      167棟
◇2000年基準
   242棟 (12.5%)  7棟    10棟      91棟      134棟
◇時期不明
   190棟 (10.1%)  0棟    15棟      102棟      78棟


posted by uno2016 at 14:34| Comment(0) | 書評(建築・住宅) | 更新情報をチェックする

「マグネチュード」より「震度」がポイントになる消費者と地場ビルダー (上)



日経ホームビルダー編 「なぜ新耐震住宅は倒れたか」 (日経BP 2400円+税)

新耐震住宅.JPG

私は今まで、地震が起るシステムが知りたいので、地震学者とか気象庁のお偉いさんの言うことを黙って聞いてきた。
とくに 「地震を語る」 とになると、口角泡を飛ばして各大学の諸先生方が興味を示すのは、海溝型のマグネチュード8~9の大地震。
今年の4月16日の未明に起きたマグネチュードが3.5という熊本地震の本震などには、洟もひっかけない。 震度6強が2回、6弱が3回も起きているのに、全く関心がない。彼らが語るのは 東海から四国沖にかけて、今後30年以内に70%の確立で起ると言われている 「南海トラフト」 地震のことや東京の直下型地震のことのみ。
しかし、私がいままでに取組んできたのは、大学教授を喜ばせるための海溝型のマグネチュード8~9という地震ではない。 
1995年1月17日の未明に発生した阪神・淡路の震度7の地震であり、2004年10月23日の夕方に発生した川口町の、これまた震度7を記録した中越地震。 それと、2011年に これまた震度7を記録した津波による被害の多かった東日本大震災。 それと、今年 2016年の4月14日の前震で震度7と2日後の本震で再び震度7を記録した熊本地震。
ところが、その最も関心の高い熊本地震だが、日経アーキテクチャーから新発売されている表記の著書は、高すぎる。 定価が2400円で、税込価格は2592円 (2600円) 近くもなってしまう。 それほど、編集部の総力を賭けた作品だと言いたいのだろうが、要はどれだけ広範囲に読まれるかがポイント。
先に採算性を考えている著書なんて 絶対に買いたくないと思ったが、新耐震基準による倒壊が多いと書いているので、買わざるを得なかった。

ともかく、現役だった1995年の阪神・淡路の大震災や2004年の中越地震の時は、地元に適切な案内人がいたので、駆けつけることが出来た。 阪神・淡路大震災では、自らも 神戸に住んでいて 持っていたアパートも大きな被害を受けた松下電工の長年の仲間が案内してくれた。
神戸の被災地に入って驚いたことは、「関西では、地震の心配は 一切ない」 と言う神話が浸透していて、10.5センチ角ではなく、9.0センチ角の細い柱があまねく普及していたこと。 地元の建材仲間から、「ともかく、運送途中で折れる通し柱が 応々にある。 それほどひどい材を使っている」 と聞いてはいたが、神戸の現場は本当にひどかった。
基礎に鉄筋が入っていないものが半分近く占めていたし、太い柱で10.5センチ角にすぎず、半数以上が9センチの角材。 それこそ運送途中に折れる心配のある通し柱。
神戸市の死者2456人のうち、92%の2221人が15分以内に死んでいたという理由は当然。
神戸市だけではなく、死者6434人のほとんどは 通し柱が簡単に折れ、1階で寝ていた老人を中心に、倒れてきた2階の下敷きになって即死したものと考えて、間違いなかろう。
たしかに、中には家具などの下敷きになり、脱出困難で 火災で焼かれた人もいたろう。 だが、通し柱が折れて1階があっという間に潰されている現場を多く目撃された。 私は「神戸地震は、大工さんなどの建築業者が加害者であった」 と結論づけざるを得なかった。
そして、在来木軸で食っていた大工さん以下は、どのような形で責任をとるのか?  私には在来木軸の未来は、これで絶たれたと感じた。

一方、中越地震ではトステムのスーパーウォールで以前から付き合っていた 六日町から十日町方面を地場とする トピアホームを訪ねて取材を行った。 そして、震度7を記録したのは川口町だと知りスーパーウォールで実績のある渡部建設の案内で、川口町の激震地を案内して頂いた。
さすがは多雪地。 神戸のような10.5センチ角とか9センチ角と言った柱や通し柱はない。 少なくとも4寸角 (12センチ角) とか、中には5寸角 (15センチ角) という柱が目に付いた。
そして、私かとくに驚いたのは、多雪地のために ほとんどの家の1階はダブル配筋のRC造。 そうして2~3階が在来木軸で建て、雪の多い冬季は 2階から出入れしていた。 このため、1階の土間は物入れとか車の置き場として活用されていた。
この1階のRC造が、震度5~6の五日町や震度7の川口町でも 全く傷ついたものを見かけなかったこと。 つまり、外壁、床、野地に構造用合板を使用したスーパーウォールは強かった。
半壊以上の物件も目には付いたが、全壊は1戸もなし。
そして、激震地ではスーパーウォール以外は全滅という現場を多く見た。 しかし、その倒壊した建築物の1階のRC造に被害が皆無。 このダブル配筋の頑丈さには、心底から驚かさせられた。
と同時に、ツーバィフォーと在来木軸との「アイの子」に過ぎないスーパーウォールの丈夫さにも感動させられた。

渡部建設の注文住宅には 大きな家が多かった。 このため、内部の石膏ボード張り部分には、軒並み4寸の1/2とか1/3というスジカイが使われていた。 つまり、40ミリから60ミリのスジカイが使われていた。 このスジカイはどうなったのか‥‥。
圧縮力で全てののスジカイは面外へ挫屈して、石膏ボードを吹き飛ばしていた。
それが、1例や2例だったら許せるだろう。 私が見た全ての現場で、太いスジカイに石膏ボードが吹き飛ばされていて、耐力壁としての効果ゼロ。
この現実を見た時、私はスジカイの効果に大きな疑問を感じた。
ところが、信州大学と築波大学の先生が、この中越大震災の現場へ入っている。
私もムリをしてその発表会に参加させてもらったが、両先生の発表内容にはがっかりした。
確かに、両先生とも倒壊した在来木軸の現場へ入っている。 それは 何葉にも映し出された写真が正直に物語っていた。
しかし、両先生に共通する欠陥は、被害を受けていない1階のRC造に対して、何1つコメントしていなかったことと、中越地震で倒壊しなかった現場を全く 踏襲していないだけでなく、何1つ教訓を現場から得ていないことだった。

この著書では、表題が示しているように、「なぜ新耐震住宅は、潰れたのか?」 という大きな疑問を投げかけている。
ご存知のように、1981年にそれまでは震度6で倒れない建築物を、建築基準法上 「耐震建築物」 と呼んでいた。 それが1981年に建築基準法の大改正が行われ、震度7でも倒れない住宅のことを指すようになった。
つまり、耐震建築物といっても、1981年以前と以降は、全く変わったものに。 つまり、1981年以前のものを 「旧耐震基準」 と言い、1981年以降のものを 「新耐震基準」 という。
さらに、2000年に、「基礎」 「柱梁やスジカイの接合部」 「壁のバランス」 に関する告示がなされたので、この著では 「2000年基準」 と呼称して用いている。
今度の熊本地震で被害を受けた住宅は16万棟にも及んでいる。
例えば、1995年の阪神・淡路大震災では、調査した421棟のうち 1981年以前の 旧耐震基準が圧倒的で97%を占め、新耐震基準は13棟で、わずかに3%を占めるだけだった。
◇旧耐震基準    倒壊   大破      小・中破     無被害 
   408棟     77棟   81棟       225棟      25棟
◇新耐震基準
    13棟     1棟              6棟       6棟

これに対して、熊本地震の旧新基準や2000年基準、時期不明の1940例の比率は以下のようになっている。
◇旧耐震基準    倒壊   大破      小・中破     無被害
   702棟 (36.2%) 225棟   124棟      322棟       31棟
◇新耐震基準
   800棟 (41.2%) 73棟    78棟      482棟      167棟
◇2000年基準
   242棟 (12.5%) 7棟    10棟       91棟      134棟
◇時期不明
   190棟 (10.1%)               102棟       78棟
なんと新耐震基準と2000年基準が53.7%を占めている。
そして、これ等の新耐震基準と2000年基準にもとづいて施工された住宅の、なんと4%以上が熊本の2度にわたる震度7の地震で倒壊している。

日経新聞は、この著で言いたかったことは、「熊本地震の新耐震住宅の4%以上も倒壊したのだから、新規に2016年度の新しい基準を設けるべきではないか」 との提案だと思う。
私も、この提案には大賛成。
しかし、この本の第6章 「危ないスジカイ」 や、第7章の 「危ない軸組」 を読むと、日経ホームビルダーとして在来木軸工法の、「この点を こう変えるべきだ」 と言う点が、大変にあいまいで、スジが通っていない。
このままでは、金物工法とかミサワホームの言うように、やたらなに高価な新商品を押しつけられることになりかねない。
世界の木造住宅を見ると、大変耐震性能が良いだけではなく、防火性能にも秀でた木質構造がうじゃうじゃしている。
単に国内の製材工場に拘るのではなく、国産材を大切にしながら、消費者に安価で性能の高い住宅を供給してゆく義務が日経新聞にもあると思う。
その具体論について、次回には触れたいと思う。


posted by uno2016 at 09:03| Comment(0) | 書評(建築・住宅) | 更新情報をチェックする

2016年08月25日

4回も日本の総理大臣を務めた伊藤博文が、初めて文庫小説の主人公に!



門井慶喜著 「シュンスケ!」 (角川文庫 720円+税)

俊輔.JPG

この著書は、3年前に角川書店より刊行されたもので、7月下旬に文庫化されたばかり。
私だけでなく、皆さんも初代 (1885年12月) の内閣総理大臣をはじめ1900年10月の第10代目まで計4回に亘って総理大臣を務めた伊藤博文 (いとうひろぶみ)氏のことはよくご存知のことと思う。 NHKの大河ドラマにも何度か出演しており、伊藤博文氏の名を知らぬ者は皆無だろう。

貧しい百姓の子供として生れた利助という子がいた。
この子は周防国 (すおうこく) 束荷村 (つかりむら) の百姓の子で、大変な腕白者。
「わしは、さむらいじゃあっ」というのが口クセで、腰には二本を差込んでいた。
もちろん本物の脇差ではない。
その辺で拾った桜か何かの木の枝に過ぎないが、子供なりに「百姓は、いやじゃ」 という切実な理由を持っていた。
その利助が、年上の乱暴者に果たし状を差し出し、「叩き切ってやる」 と、たいそうな振舞い。
しかし、ことごとく失敗して逃げだし、火打ち石を使って逃げて潜んでいた家に火を付けた。
これには年上の乱暴者も降参。 「もうお前のことはクサしたりせぬから、火打ち石だけは勘弁してくれ‥‥」 と言ったとか。
これに対して、「クサしたのが悪いのではない。 わしはさむらいじゃ。 さむらいを侮辱したことがわるいのじゃ」 と、若い利助は吠えまくった。

その晩。利助の住む家には、顔を煤で汚し、着物のあちこちを焦がした大人が押し掛けてきて、一斉に罵声を浴びせた。
「あっしらが、命がけで周りの草を刈り、小屋をつぶしたから大火事にならなかった。 あのまま東風が吹いていたら、束荷村は全焼になっていた。 いくら子供のわるさにしても、度がすぎている」 と、異口同音に怒鳴りつけた。
これに対して、利助の母・ことは、土間に額を擦りつけて「すまんことをした。 うちの利助がそれほどの悪さをしたとは知らなかった。 これこの通り、土下座するから、なんとかこらえてやってください‥‥」 と、洟をすすりながらあやまった。
そして、母親が利助の頭を掴んで土間に押し付けた。
利助も「‥‥すまんかった」 と言ったので、何とか村人は退散した。

その時、「失礼する」 と言う声がした。
またぞろ、村の誰かがいちゃもんつけに戻ってきたと思い、母はしぶしぶ立ち上って、戸を滑らせて空けた。 そこにいたのは、紋付羽織をまとった若い武士。
利助は、「さむらいじゃ」 とわかった。
「さむらい気取りの子供がいると聞いたが、そなたのことか?」
「気取りではない。わしは、さむらいじゃ」 と利助が答えた。
「はっはっは‥‥なかなか勝気な子だ。 そこまでいうなら、さだめし 理由があっての ことだろう。 その理由をうかがいたい‥‥」
「聞きたいか。 なら、まず名を名乗れ!」 利助は命じた。
「これは、失礼した。 拙者は来原良蔵といって藩校・明倫館の学生でござる」
萩城下の来原良蔵と言えば、その雷名はこの束荷村にもとどろいていた。 幼いころから秀才の誉れが高く、14歳の時に長州藩主・毛利敬親から即興の漢詩を誉められ、金300匹を与えられたということが知れ渡っていた。
その来原が、理由が聞きたいという。
利助は思わず、「百姓では天下がとれない。 わしは 一国の宰相になりたい‥‥」 と、本音をもらしていた。
これを聞いた母親はビックリ。「なんというおおそれたことを‥‥来原様。 子供のたわごとだと思うて、お聞き流しを‥‥」 と頭を下げた。
しかし、来原は、「いやいや、ご母堂。 良い言葉を聞いた。 しかし、字や書は習っているか?
勉強しなくては武士にはなれぬ。 まして宰相には‥‥」
「うん」
「うんではない。 武士の返事は 『はい』 だぞ‥‥」

こうした、ませた利助という子供の頃の伊藤博文氏の逸話が先に登場してくるから、この著はそうした逸話に満ちたものだと期待した。
ところが、名前を伊藤俊輔に変えてからも、これはという逸話が登壇しない。
しかし、この小説には最初から来原良蔵氏や同氏の推奨で吉田松陰氏や高杉晋作氏、久坂玄瑞氏など歴史上の大物の名が次々に登場する。
また、伊藤博文氏と言うよりは、とくに伊藤俊輔氏に対する来原良蔵氏の命がけの教えには肝を潰される。 来原氏は、自分の手で利助をさむらいにしてやるつもりだった。
ところが、利助の父・十臓は、ふるさと束荷村に妻子を置いて一人で萩の城下で稼いでいた。 最初はきこり、米つき、小作人など何でもこなした。 その働きぶりが蔵元付中間・永井武兵衛に認められ、使用人となった。 武兵衛に子供がなかったので、やがて永井の性を十臓に与え、妻子を呼び寄せて永井性を付けることを許した。 こうして、正式な武士階級ではないが、利助も名字帯刀を許される身になっていた。
俊輔氏は、言葉の上で 「さむらいになりたい」 と言っているが、大の芸者好きで、スケ兵衛であることには変わりがない。 この小説でも、大変な濡れ場が何度か投場してくる。 俊輔氏は一流の芸者より、二流や三流の芸者を好んだと伝えられている。 そして、三流の芸者と事を起している現場を来原氏に見られている。
そして、来原氏から「俊輔はたしかにさむらいになった。 しかし内実は、はるかにさむらいより遠い存在にすぎない‥‥」 と嘆いた。
「やはり、女郎買いはいけないことでしょうか」 と俊輔が聞くと、来原は悲しそうな顔をして、
「ちがう。 俺について来い」 と言った。

そして、海岸に出ると来原氏は言った。
「俊輔よ。 残念だが私にはお前を導く時間がない。 おそらく生涯ないだろう。 したがって、今のうちに二つのモノを君に授けておく。 一つは吉田松陰塾。 君はまだまだ学問が足りない。 これからも読書を続ける必要がある。 それには山鹿琉兵学師範・吉田寅次郎のいとなむ松下村塾ほど適したところはないだろう」
「それともう一つは,武士の心。 よいか、いざという時に 《腹がきれるかどうか》 で、武士の
値打ちが決まる。 このことを 君は子供の時から勘違いしている」 と言って小刀を抜き、「良く見ていろ」 と言って着物の襟を左右に開き、現れた左の脇腹に刃の先を突き立てた。
「覚悟」といっても、相手には伝わらない。 来原氏も初めての経験で加減が分らない。 歯をくいしばって刃を同じ深さで右へすべらせた。
そしで同じ小刃で、今度は喉を突きさした。 刃先がのどぼとけに触れ、コツンという音がした時、来原は小刃をのどから抜いて、砂地に刺した。
「よいか。 宰相になるには、これくらいの覚悟 がなくてはならない」 と、来原は無言で教えているようだった。 すかさず俊輔氏は来原氏には勤番小屋まで肩を貸してあげ、すぐ医者を呼んだので、来原氏の一命は救われた。 だが、俊輔氏は子供の時のように 「わしは、さむらいだ」 と言えなくなっていた。

それどころか、長生きすることこそが最優先事項と知ったらしく、伊藤博文氏になって以降の政治家としての氏の動向は、維新の若者とはまるっきり違ったものになっていた。
1905年に初代韓国統監に選ばれた伊藤博文氏は、1909年ハルピンで朝鮮民族主義の活動家・安重根に暗殺されている。 68歳の人生だった。


posted by uno2016 at 15:33| Comment(0) | 書評(その他) | 更新情報をチェックする
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