2016年02月29日

「あっ」と言う間に曳きこまれ、朝までに読み終えた面白さ!



青木孝安著「山村留学‥‥生まれ変わる子ども・親・村」(農山漁村文化協会 1600円+税)

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まさか、私がこの本をこのブログ欄で紹介するなどとは、考えてもいなかった。
期待ゼロで、なんの気なしに読みはじめた本。
ところがこの著書には、観念的に書かれたところが一つもない。 すべて 山間留学に参加した子どもの感想や、送り出した親の意見。 子どもたちを受け入れた農家の本音。 子どもを受入れてもらうまでの教育行う山村留学センターの建設秘話。 山村留学生を指導した現地の諸先生方や教育長のナマの声‥‥など、すべて本音が語られている。
なかには、著者の突飛な思い付きの根拠まで出てくるのだが‥‥。
ともかく、これほどまでに事実を並べられると、「参りました」 と言うしかない。 そして、爽やかな読後感が待っている。

読後、あわてて著者の経歴を見た。 1930年生れだから今年で86歳。 師範学校を出て中学校や小学校の教師を務めていたが、1967年に37歳の若さで安定している教師を辞めている。
決して、勝算があったわけではなく、また目論見があったからでもない。 ただ、かつて 教育を語る会のメンバーが心配してくれて、玩具メーカーの調査研究をやりながら家庭教育誌 「育てる」 の出版を開始したのは翌1968年。
この 「育てる」 の編集会議は 毎月開かれていた。 6月の編集会議で、夏休み期間中の 子どもの過ごし方について話合われた。 当時から 受験競争が激しくなり、学習塾が開設されて、塾通いが盛んになりつゝあった。
「受験競争の子は自己中心になりはしないか」  「高学歴で就職出来ても、職場に適合できなくなるのではないか」 「子どもの成長段階で、自然体験・労働体験が必要だと思う」 「集団生活を通して思いやりの心情を養うことが大切だ」 などの意見が出された。

学習目的を達成するために、各種の 「教材」 がある。 それと同じように、子どもにとって必要なのは 「体験材」 だと筆者は考えている。 自然を体験させるには、山村にある 「体験材」 を活用するしかない。 そこで、東京に近い軽井沢、那須、箱根、伊豆などを実踏調査をした。
しかしこうした観光地は、体験材としてはいずれも失格。
長野の池田町の人々に集まってもらって趣旨を説明したが、反応なし。 やっと隣村の八坂の村会議員のA氏なら、話に乗ってくれそうだと分かって説得。 そしたら 「二泊三日程度なら良い」と言うので、子供のほかに保護者20数人と自然体験をしたのが1948年と言うから68年も昔のこと。
これが記念すべき第一回の自然体験。
翌年はA氏の協力で周辺の農家の協力が得られ、40数名の子供が参加して 喜々として集落内を歩き回り、野菜の収穫を手伝ったり、近くの山へ登ったりして自然を満喫。 とりわけ、野菜中心の食事が好評だった。 この実践を通じて、筆者は 普通の山村農家に宿泊してこそ、自然体験が体得できることを知った。  体験材は、山村の農家にあった。

この2回の体験活動で自信を得た筆者は村長を訪ねて協力を要請した。 村長は全面協力を約束してくれたが、「どんな体験がしたいかによって 選ぶ農家が違ってくる。 どんな体験を求めているのか‥‥」 と言いながら、車で八坂村を案内してくれた。 この案内の車のなかで、筆者は次のような具体的な体験内容を想定していた。

・あの複雑な山道を歩くことによって、子供たちの冒険心をくすぐるだろう。
・3000メートル級の北アルプスの頂上に立ったら、感動と征服感を味わえるだろう。
・あの農家で農作物の出荷の手伝いができれば、農業労働の実体験が出来る。
・あちこちにある さまざまな植物や昆虫に触れれば、得難い自然観察が出来る。
・農家の暮らしに溶け込んで村祭りなどに参加すれば、山村の生活文化が体験できる。
・農家に宿泊し、家事を手伝い、働いた上で一家揃って食事をすれば、家族体験が出来る。
・渓流の近くで自給自足の生活をすれば、サバイバル体験が出来る。
・冬、雪や氷に閉ざされた寒さと冷たさを体験をすれば、本当の冬を体験できる。‥‥

この視察結果をもとに、次の年の夏休みに 体験出来る数々のことをA新聞に話したら、記事にしてくれた。
そしたら、想像出来ないことが発生した。
市ヶ谷の小さな事務所の3台の電話が、早朝から鳴りっぱなし。
ある程度のことは予想していた。 しかし、塾の勉強を最優先している人が多いはず。  なのに夏休みに子供を山村農家に宿泊させ、自然や労働体験を経験させることに賛同する人が、これほどワンサといるとは‥‥。
参加希望者は800人を越え、指導者を入れると宿泊者は900人の規模にもなった。
急いで八坂村に飛んでゆき、集まっていた50人ほどの村人に、筆者は出来るだけ具体的に分かりやすく話をした。

・子どもたちをお客扱いしないで、家族の一員として扱ってほしい。
・食事は特別なものはいらない。 農家で採れた野菜を中心に、普段食べているものでいい。
・庭の掃除、風呂焚き、雑巾がけなどの家の手伝いをさせて欲しい。
・農作業に連れ出して、いろんな仕事をやらせて欲しい。
・子どもが知りたいことや、やりたいことを聞き出して、できるだけやらせてほしい。
・仏壇の花飾り、水替え、村祭りなどの行事があったら、それに参加させて欲しい。

集まった村人の中には、おカネを貰って都会の子を預かるのだから、特別食を用意しなければならないと考えている人が多かった。
「それで良いのなら、試しにやってみようか」 と30軒の農家が受け入れを承諾してくれた。
しかし、900人に対して30軒は 少なすぎる。 しかし、最初から小さな村でなので 大きな受入れ体制を期待する方がムリ。 いろいろ検討した結果、3回に分けて 2泊3日の夏休み自然体験活動を実施して、予想以上の成果を挙げた。

こうした夏休みを利用した2泊3日の体験活動に加えて、職員の増加や ボランティア体制も充実してきたので、東京を拠点に土、日曜日を利用した 「ミニ体験活動」 を活発化させた。 日帰りか1泊程度の体験活動。 たとえは、次のようなもの。
・三浦半島の海岸線を歩くとか、三浦半島の自然を観察する活動。
・丹沢の山を従走するとか、秩父の山を歩く活動。
・葉山の海辺の生物観察活動とか、奥多摩の自然を観察する活動。 etc。

これとは別に、長野・八坂村だけではなく、もっと体験場所を拡げる必要があるという意見が出されて、北海道・十勝清水町に「少年自然の家」が設けられた。 上野からの夜行列車を利用し、廃校で自炊生活をするもので、農業体験は専ら酪農に限られていた。 蓄舎での牛糞処理や、牛追い体験、日高山脈登山、キャンプ生活、古老より開拓史を聞く体験なとがそれ。
一方南方では、五島列島・新魚目町に 「漁村生活体験の家」 が設けられた。 自炊生活と漁師家庭への民泊で、漁船に乗って対馬海流での定置網漁体験と 番屋での漁師食体験のほか、キリシタン家族と共にミサの体験も出来るもの。
このほかに、鹿児島・笠沙町の 「リアス式海岸体験の家」 とか、高知・土佐清水町の 「清流に暮らす家」 とか、三重・浦野町の麻倉島の 「無人島の家」 などがある。

こうした、夏休みを中心とした冬休み、春休みを利用した2泊3日を中心に、土、日を利用したミニ体験を経験した子どもの親から、「子どもが、もっと長く村に居たいというので、1年間続けて山村の学校へ通えるように出来ないか」 という意見が寄せられた。
村の学校へ通うと言うことは住民票を移し、親元を離れて山村へ移住するということ。

そして受け入れる農家でも、2~3日だとなんとか我慢して子どもに合わせている。 しかし、1年間となると話が違ってくる。
「性格が違う上に、しつけが全然出来ていない子がいる。 共同生活をしたことのない子どもを、いきなり農家に押し付けられても一緒に生活することは出来ない。 育てる会で、基本的な生活指導をしておいてくれないと、引受けるわけにはゆかない」 との意見が出されてきた。
例えば和式・洋式のトイレの使い方。 ベットで生活している子ともを畳の上の布団生活に慣れさせ、その布団の処理方法の指導。 テーブル食と ちゃぶ台食の食事の作法の指導。  正座が出来ない子どもの徹底した指導と、食べ物に好き嫌いがある子どもの指導、など。
また、子供が自由に活動してよいと言っても、この村では何が出来るかがわからない。 そういった事前の知識を与えてやって欲しい、というのだ。
それでなくても、夏、冬、春の休みを利用して八坂村を利用する子どもが、東京、名古屋、大阪をはじめとして各都市から、毎年1000人を超えるまでになっていた。 また、1972年には 「育てる会」 が財団法人として認可されてもいた。
このため、村の中に 「育てる会の専用活動拠点」 が必要不可欠になっていた。

かくして、1973年に 「山村留学センター」 の設計計画の作製作業や、役場の振興課長と同伴で土地探しが始まった。 しかし、土地探しは ことのほか難渋した。 というのは、理想とする土地はいくつも見つかったが、飲料水の確保が出来ないモノが多くて諦めざるを得なかった。
農山村には、長い歴史に裏打ちされた 「水利権」 がある。 このため、水を分けてもらうことは一大難事に。

それよりも困ったのが建設資金。 日本船舶振興会の補助金と一般公募を予定していたが、オイルショックという経済不況に見舞われて公募が予定通りに集まらない。 不足分を銀行融資で賄おうとしたが銀行がお断り。 地元の農協に申込んだが、定款上 融資ができない。 唯一の方法は、農家の農地を担保をとって農家へ貸すこと。 この迂回融資には反対意見が出て、何回となく会合を重ね、葛藤と苦渋を経て何とか融資が実現。
しかし、返済期間が余りにも短かったので、約束金利の上に延滞金まで加算され、ニッチもサッチも行かなくなってきた。
この時、数人の保護者が農協への延滞金利を立変えて支払い、支払期間の延長と金利引下げを農協と交渉をしてくれ、無事10年間で完済出来た。
こうして170人の収容人数を持つ山村留学センターが完成し、1976年から 「山村留学事業」 が開始された。
ということは、今年で丸50年の歴史と山村留学の実績を持っている勘定。

ここまでの紹介で、3章の半ばまできてしまった。 この著作は 7章にも及ぶ。 まだまだ紹介しなければならないことが多いのに、あっという間に紙数が尽きた。




posted by uno2016 at 10:33| Comment(0) | 書評(その他) | 更新情報をチェックする
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