
日経新聞取材班著 「働くということ」 (日経新聞社 1500円+税)
いつもの通り、喜平図書館の 新刊書コーナーに、「商社マンの〈お仕事〉と〈正体〉がよーくわかる本」 と、この 「働くということ」 が置いてあった。 当然のことながら、新刊書と勘違いした私は、前記の本を紹介すべく記事に書いた。 ところが良く見ると前記の本は5年前に発刊されたもの。
そして、日経の取材班が書いて大変に面白いと感じたこの本は、奥付を見ると なんと12年も前に出版されたものだと判明。
当然のことながら、12年も前のモノを取上げることは出来ない。 しかし、書いてある内容は、12年経った今日でも十分に通用する。 とくに世代のズレとか、会社との距離を探ると言う項目は、今でも新しい問題。 その問題に日経の20人余の記者が、まともに取組んでいる。この本を、今までに読まなかった私自身の無策ぶりも、問われている気がした。
そこで、この本の第2章、第3章、第4章に限定して、範囲をどこまでも 「世代のズレ」 とか「会社との距離を探る」 と言う範囲だけに絞って紹介することにした。 したがって この著で言わんとしている 「働くということ」 から、内容が かけ離れたものになってしまったことは、前もってお断りをしておきたい。
ご案内のように、私が住宅ジャーナル誌の編集長をやっていた時は、日本経済の 高度成長時期であり、バブル時代でもあった。 絶えず人手が不足していて、人材を獲得するには、「他社より良い条件」 を出さない限り絶対に不可能。
つまり、思い切った 「高額所得水準」 に会社の体系を 変えられるかどうかがカギ。 私は何の躊躇もなく、「高額所得水準」 に変え、若手の編集者を迎えた。
しかし、日本経済の高度成長は、いつまでも続かなかった。 やがて、バブルがはじけて、早々と「店終い」 が始まった。 私が幸運だったことは、第1次ベビーブームが始まる10年前に生れていたことであろう。 つまり「第1次ベビーブーム」 扱いは、一切受けないで済んだだけではなく、高度成長期の恩恵をまともに受けられた。
統計局のホームページによると、26年10月1日 (2014年) で、図2の通り第1次べビ―ブームの人々はいずれも65歳を超えて65~67歳になっている。 今年の10月1日 (2017年) には平均で68~70歳になっており、たしかに65歳以上の人口増加層は増えるが、15~64歳までの生産年齢減少率を上回ることは、今後10年近くはあり得ないのではなかろうか。
http://www.stat.go.jp/data/jinsui/2014np/
つまり、11年後から約10年間に亘って本格的な 第2次ベビーブームが始まる。
統計局の調査では2014年の10月1日付で、年令が40~43歳までの4年間が第2次ベビーブーム時代だと指摘している。 第1次が3年間だから 第2次の4年間は長い方だろう。 私は勝手に 第2次ベビーブームは約10年間としている。
その方が分りがよい。 だが、それが過ぎるまでの日本の社会は 常に「高齢化社会」 に悩まされ続けるのではなかろうか。
上図から、そんな予測が生まれてくる。 つまり、「日本社会の高齢化」 問題は あと20年間は叫ばれ続けると言う予測。
それ以降に、本格的に問題化するのは、「若手労働力の異常なまでの縮小」 と、「本格的な労働力不足」 であろう。
この極端な労働力不足は、単に日本だけに起る特殊な現象ではない。 中国やアメリカでも起る普遍的な「人口減少現象」。
そのことを知ってから、私の 「世の中の見方」 が変わってきた。
それまでの私は、なんだかだと言っても中国やロシアの革新的な制度に心を奪われていた。 しかし 彼等が言わんとすることは、この世には存在しない抽象的な世界だと知って、基本的な考えの修正に迫られた。たしかに、アメリカ、ヨーロッパ各国において、貧富の差か大きい。 これは中国でもロシアでも変わらない。 唯一例外として挙げられるのが、バブルがはじける前の日本。 日本だけが例外的な 「中産階級の国」 と考えられてきた。
日本には、「終身雇用」 という雇用制度があったからである。
終身雇用制度では、誰もが正社員になれたし、我慢して努力さえ続ければ 半永久的な雇用だけでなく、将来の役職と退職金が約束されていた。 これほど、労働者のことを考えた制度というのは世界に例を見ない。
そういう私だが、編集長時代には 常にこの終身雇用制度について、疑問を感じさせられてきた。
というのは、若手の編集者を雇うということは、一生涯その身分を保障しなければならない。 どんなに出来が悪くても、会社が雇った以上は常に終身を保障しなければならない。 それだけに、雇用に関しては真剣にならざるを得ない。 ところが、私は面接業務が大の苦手。 若い人の 面接と採用は、すべて他の人に任せてきた。 つまり、採用した若手の一生の保障行為だけの責任を負わされてきたということ。
その時に、アメリカ流というか、ヨーロッパ流と言うか、「終身雇用は必要ない。 とりあえず高い賃金さえ払ってくれさえすれば良い」 という人が現れてきた。 これは、私にとっては 「渡りに船」。 これほど都合の良い提案はなかった。
と言うのは、私にとっては高給を払うことは何一つ苦にならなかった。
それまでも、かなりの高給を払ってきたつもり。
それよりも、終身雇用の方が私にとっては頭痛のタネ。 いいてすか。 会社として見れば、終身雇用ほど難しい条件はない。 間違えた人を雇った責任は、一生負い続けなければならない。これほど過酷な条件は、ない。
終身雇用制を維持し、かなり安く人材が入手出来ると言うのは、よほど 名の通ったの企業でなければ不可能。 中小企業では、「絶対にムリな相談」。
そのため、名の無い中小住宅新聞社では、ムリを承知で 「高級」 を払うしか有望な 若手を採用する方法がなかった。
それなのに、「日本的な終身雇用は必要ない。 当面の給料だけ高けれはよい」 という人が現れたと言うことは、私にとってはこれほど好都合なことはない。
そして、この考えは何も小さな住宅新聞社だけに限った傾向ではなく、広く社会全体に 「欧米の新しい給料体系」 として採用されていった。 その中で、日本の社会だけが持っていた 「終身雇用制度」 と 「中産階級国家」 が姿を消してしまった。
この著でも、「終身雇用制度」 を選ぶか、「当面の高価格制度」 を選ぶかで、議論が 分かれている。 しかし、肝心の 「中産階級国家」 についての言及がない。
このため、折角のこの著書に拡がりが期待出来ないモノになっているのは、大変に 残念なところである。