2016年08月25日

4回も日本の総理大臣を務めた伊藤博文が、初めて文庫小説の主人公に!



門井慶喜著 「シュンスケ!」 (角川文庫 720円+税)

俊輔.JPG

この著書は、3年前に角川書店より刊行されたもので、7月下旬に文庫化されたばかり。
私だけでなく、皆さんも初代 (1885年12月) の内閣総理大臣をはじめ1900年10月の第10代目まで計4回に亘って総理大臣を務めた伊藤博文 (いとうひろぶみ)氏のことはよくご存知のことと思う。 NHKの大河ドラマにも何度か出演しており、伊藤博文氏の名を知らぬ者は皆無だろう。

貧しい百姓の子供として生れた利助という子がいた。
この子は周防国 (すおうこく) 束荷村 (つかりむら) の百姓の子で、大変な腕白者。
「わしは、さむらいじゃあっ」というのが口クセで、腰には二本を差込んでいた。
もちろん本物の脇差ではない。
その辺で拾った桜か何かの木の枝に過ぎないが、子供なりに「百姓は、いやじゃ」 という切実な理由を持っていた。
その利助が、年上の乱暴者に果たし状を差し出し、「叩き切ってやる」 と、たいそうな振舞い。
しかし、ことごとく失敗して逃げだし、火打ち石を使って逃げて潜んでいた家に火を付けた。
これには年上の乱暴者も降参。 「もうお前のことはクサしたりせぬから、火打ち石だけは勘弁してくれ‥‥」 と言ったとか。
これに対して、「クサしたのが悪いのではない。 わしはさむらいじゃ。 さむらいを侮辱したことがわるいのじゃ」 と、若い利助は吠えまくった。

その晩。利助の住む家には、顔を煤で汚し、着物のあちこちを焦がした大人が押し掛けてきて、一斉に罵声を浴びせた。
「あっしらが、命がけで周りの草を刈り、小屋をつぶしたから大火事にならなかった。 あのまま東風が吹いていたら、束荷村は全焼になっていた。 いくら子供のわるさにしても、度がすぎている」 と、異口同音に怒鳴りつけた。
これに対して、利助の母・ことは、土間に額を擦りつけて「すまんことをした。 うちの利助がそれほどの悪さをしたとは知らなかった。 これこの通り、土下座するから、なんとかこらえてやってください‥‥」 と、洟をすすりながらあやまった。
そして、母親が利助の頭を掴んで土間に押し付けた。
利助も「‥‥すまんかった」 と言ったので、何とか村人は退散した。

その時、「失礼する」 と言う声がした。
またぞろ、村の誰かがいちゃもんつけに戻ってきたと思い、母はしぶしぶ立ち上って、戸を滑らせて空けた。 そこにいたのは、紋付羽織をまとった若い武士。
利助は、「さむらいじゃ」 とわかった。
「さむらい気取りの子供がいると聞いたが、そなたのことか?」
「気取りではない。わしは、さむらいじゃ」 と利助が答えた。
「はっはっは‥‥なかなか勝気な子だ。 そこまでいうなら、さだめし 理由があっての ことだろう。 その理由をうかがいたい‥‥」
「聞きたいか。 なら、まず名を名乗れ!」 利助は命じた。
「これは、失礼した。 拙者は来原良蔵といって藩校・明倫館の学生でござる」
萩城下の来原良蔵と言えば、その雷名はこの束荷村にもとどろいていた。 幼いころから秀才の誉れが高く、14歳の時に長州藩主・毛利敬親から即興の漢詩を誉められ、金300匹を与えられたということが知れ渡っていた。
その来原が、理由が聞きたいという。
利助は思わず、「百姓では天下がとれない。 わしは 一国の宰相になりたい‥‥」 と、本音をもらしていた。
これを聞いた母親はビックリ。「なんというおおそれたことを‥‥来原様。 子供のたわごとだと思うて、お聞き流しを‥‥」 と頭を下げた。
しかし、来原は、「いやいや、ご母堂。 良い言葉を聞いた。 しかし、字や書は習っているか?
勉強しなくては武士にはなれぬ。 まして宰相には‥‥」
「うん」
「うんではない。 武士の返事は 『はい』 だぞ‥‥」

こうした、ませた利助という子供の頃の伊藤博文氏の逸話が先に登場してくるから、この著はそうした逸話に満ちたものだと期待した。
ところが、名前を伊藤俊輔に変えてからも、これはという逸話が登壇しない。
しかし、この小説には最初から来原良蔵氏や同氏の推奨で吉田松陰氏や高杉晋作氏、久坂玄瑞氏など歴史上の大物の名が次々に登場する。
また、伊藤博文氏と言うよりは、とくに伊藤俊輔氏に対する来原良蔵氏の命がけの教えには肝を潰される。 来原氏は、自分の手で利助をさむらいにしてやるつもりだった。
ところが、利助の父・十臓は、ふるさと束荷村に妻子を置いて一人で萩の城下で稼いでいた。 最初はきこり、米つき、小作人など何でもこなした。 その働きぶりが蔵元付中間・永井武兵衛に認められ、使用人となった。 武兵衛に子供がなかったので、やがて永井の性を十臓に与え、妻子を呼び寄せて永井性を付けることを許した。 こうして、正式な武士階級ではないが、利助も名字帯刀を許される身になっていた。
俊輔氏は、言葉の上で 「さむらいになりたい」 と言っているが、大の芸者好きで、スケ兵衛であることには変わりがない。 この小説でも、大変な濡れ場が何度か投場してくる。 俊輔氏は一流の芸者より、二流や三流の芸者を好んだと伝えられている。 そして、三流の芸者と事を起している現場を来原氏に見られている。
そして、来原氏から「俊輔はたしかにさむらいになった。 しかし内実は、はるかにさむらいより遠い存在にすぎない‥‥」 と嘆いた。
「やはり、女郎買いはいけないことでしょうか」 と俊輔が聞くと、来原は悲しそうな顔をして、
「ちがう。 俺について来い」 と言った。

そして、海岸に出ると来原氏は言った。
「俊輔よ。 残念だが私にはお前を導く時間がない。 おそらく生涯ないだろう。 したがって、今のうちに二つのモノを君に授けておく。 一つは吉田松陰塾。 君はまだまだ学問が足りない。 これからも読書を続ける必要がある。 それには山鹿琉兵学師範・吉田寅次郎のいとなむ松下村塾ほど適したところはないだろう」
「それともう一つは,武士の心。 よいか、いざという時に 《腹がきれるかどうか》 で、武士の
値打ちが決まる。 このことを 君は子供の時から勘違いしている」 と言って小刀を抜き、「良く見ていろ」 と言って着物の襟を左右に開き、現れた左の脇腹に刃の先を突き立てた。
「覚悟」といっても、相手には伝わらない。 来原氏も初めての経験で加減が分らない。 歯をくいしばって刃を同じ深さで右へすべらせた。
そしで同じ小刃で、今度は喉を突きさした。 刃先がのどぼとけに触れ、コツンという音がした時、来原は小刃をのどから抜いて、砂地に刺した。
「よいか。 宰相になるには、これくらいの覚悟 がなくてはならない」 と、来原は無言で教えているようだった。 すかさず俊輔氏は来原氏には勤番小屋まで肩を貸してあげ、すぐ医者を呼んだので、来原氏の一命は救われた。 だが、俊輔氏は子供の時のように 「わしは、さむらいだ」 と言えなくなっていた。

それどころか、長生きすることこそが最優先事項と知ったらしく、伊藤博文氏になって以降の政治家としての氏の動向は、維新の若者とはまるっきり違ったものになっていた。
1905年に初代韓国統監に選ばれた伊藤博文氏は、1909年ハルピンで朝鮮民族主義の活動家・安重根に暗殺されている。 68歳の人生だった。




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2016年08月05日

この著で言う「育爺論」は、特殊例であって一般論ではない!



石蔵文信著「なるほど! 育じい道」(講談社 1200円+税)

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この著書の見出しをみると、何を言わんとしているのか、意味が良く分からない。
「なるほど! 育じい道」と書いてあるが、何と読めばよいのか?
「育児論」 という書籍がある。 それに倣って 「育爺論」 と読んでも間違ってはいない。
なまじ、「育じい道」などと称するから、混乱が起る。 「育爺論」 で押し通した方が、よほど分かりがよい。


「保育園の数が絶対に足りない」 という声は、しょっちゅう 耳にする。
保育園の絶対数は確実に増えているのだが、「子どもを預けることがことができれば、なんとか働きたい」 という親が潜在的にかなりいる。 例えば、待機児童が3000人いて、それだけの保育園をつくっても、翌年には保育園に入りやすくなったことを知って、今まで就労をあきらめていた親が、続々と申込から‥‥。
著者は、審査や申込みの心配を皆無にするには、予算がかかっても 保育園を義務化にする以外にはないと考えている。 各学校や幼稚園に保育園を併設することが可能であれば、待機児童問題は解決するが、人材の確保が大問題になるが‥‥。
このため、行政では祖父母に孫の世話をしてもらうことを提案。 3世代住宅とか祖父母が近くに住む家庭に、補助金を出す自治体も見られるようになってきた。

著者は、循環器内科の専門医。 早くに学生結婚をして、学生時代に子育ての経験をしている。
生れて来たのは3人とも女の子。 しかも長女の孫は2人ともこれまた女の子。 その長女の孫も大学5年の時に結婚して、国家試験を受けた時は妊娠8ヶ月の身重。
つまり、奥さんや 娘夫婦に助けられて循環器内科医という家事商売を始められたわけ。 そして自分や娘さんの結婚が早かったので、50歳ちょっとで救急の現場から離れ、同居している孫の面倒を見れるような身分になってきたという次第。

普通のサラリーマン世帯では、結婚するのが2014年では男で31歳を過ぎているし、女性の場合でも29歳を上回っている。
ということは、筆者のように50歳台で孫に恵まれるということは絶対になくなってきている。
男の場合は 確実に60歳台になっているし、女性の場合もほとんどが60歳台になってから孫の顔を見ることが、多い。
ということは、孫の体重がとくにお婆さんにとっては大変な負担。 孫は1人だけでなく、間もなく2人になる。 このほか いろんな玩具も一緒に持たされ、かなりの体力を消耗してしまう。 このため 「孫疲れ」 と言う言葉も流行っている。
まして70歳台のお婆ちゃんに、孫の面倒を見て貰おうとは考えること自体がムリ。
お婆ちゃんには、この「孫疲れ」 のほかに、著者の言う「夫源病(ふうげんびょう)」 がある。
孫が出来る頃、夫は定年を迎える。 1日中家の中にいて、「お茶」「新聞」「めし」と呼捨てにされるので、たまったものではない。
孫よりも よほど手がかかってくるのが、定年退職後の夫。 今までは朝食と家食しか考えなくてよかった。 それなのに、昼飯の用意までしなければならななってくる。 これを 「夫源病」 と言わずして、何というべきか。

したがって、定年退職後の昼飯ぐらいは 自分で作れるように、筆者は1人用の土鍋料理を「男のええ加減料理」(講談社刊) と対して出版している。 土鍋のまま1人前をそのまま 食堂まで運び、食べ終わったら土鍋の洗いや最後の後片付けまでのすべてをやるというもの。
狙いは主婦の手を一切借りないこと。
ここら辺りは私もやっていることで、特別に 負担と考えたことはない。 しかし、著者のように若くはなく、自家業でもないので、孫の面倒を見るという経験は、一切ない。
この著では、爺さんが孫の保育園への送り迎えから孫のオムツの取換え、夕食から一緒に風呂へ入ることまでを責任をもってこなしている。
これは、著者の行為に感動するよりは、メインの仕事を娘夫婦に任せられるようになってきたので、娘夫婦の手を煩わせるよりも、爺、婆は孫の面倒を見た方が全体的に効率がよいことが分かり、仕事の分担内容が変わっただけのこと。
それなのに、「ここまで孫のために懸命にやっているのだから、誉めてほしい」というような書きっぷりが目立つ。
途中で何回となく、投げ出したくなってきた。

しかし、以下の格言は実践から生まれて来たものだけに、身につまされる。
「孫の世話くらいと、あなどるべからず‥‥」
「おっぱいのない爺が、1人で3時間、孫の面倒を見ることが出来れば、1人前」
「オシッコ、ウンチのサインをどうしてキャッチするか?」
「簡単! 早い! 栄養満点! 土鍋でええ加減離乳食」
「赤ちゃんが泣いているのは、困っているから‥‥」
「猿の赤ちゃんは、泣かない」
「5歳までがしつけどき、学校へ行くようになると学校が面倒をみてくれる」
「ほんとうにむずかしい、子どもの叱り方」
「孫がもたらしてくれる最大の効能は、健康が増進することと認知症の予防」
「子どもとの根競べが、孫の成長をうながす‥‥」
「ええかげんでも、子どもと真正面から向かい合っていれば、オーケー」


posted by uno2016 at 08:43| Comment(0) | 書評(その他) | 更新情報をチェックする

2016年07月30日

ヨーロッパが主流で、日本などアジアに触れていないのが残念。



イアン・ミラー著 「水の歴史」 (原書房 2200円+税)

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いま、世界的に「水の危険が」が叫ばれている。
その、「今日的な問題に焦点を当てているはず‥‥」と考えて、借りてきて読んだ。
ところが、内容はどこまでもヨーロッパが中心で、人口が爆発的に増えて水飢饉が問題視されているアジア、中東、アフリカについての記述がまったくない。 
これは、あまりにも一方的で、今日的な大問題を等閑視しているイギリスの出版らしいと諦めざるを得なかった。
著者は、イギリス領のアイルランド問題に詳しく、「胃の現代史」 や 「飢餓後のアイルランドの食糧改革」 などの著作などがある。 つまり 「食のプロ」 が、水問題にまで手をひろげてきたということらしい。 しかも、ヨーロッパだけの知識で‥‥。

筆者が言うように、古代文明は川の周辺で発展した。 チグリス、ユーフラテスなどは、小学生の頃に学んだこと。
エジプトのフランス総領事のマイエ氏が、ナイル川の水を飲んで、「たぐいまれにみるおいしさだった」 と語ったと、著者はそのエッセイを紹介している。
「初めてナイル川の水を飲んだ人は、まるで芸術品だと思うだろう。 えも言われぬほど 口当たりが良く、心地のいい味なのだ。 この水には、シャンパーニュ地方のワインと 同じランクを与えるべきである」 と。
これを読んで、私は吹きだした。 ヨーロッパの人々は、よっぽど不味い水道水しか 飲まされていないのではなかろうか。 私は 感覚が鈍感なせいか、それほど ヨーロッパの水道水は、不味いと感じたことがない。 もしマイエ氏が、みどり豊かな 日本の井戸水とか 岩を流れる水を飲んだら、一体何と言っただろうか?

最近の都市生活者はともかくとして、ほとんどの日本人は、井戸水や岩を流れる水を手で掬って飲み、「アヽ 甘露、甘露」 と褒めそやしてきた。
ナイル川の水を飲んで、「たぐいまれなおいしさ‥‥」 などと叫ぶ日本人は いないだろう。 それほど、日本人はおいしい水に育てられてきた。 おいしい水が絶えなく降る雨水に守られ、何万本もの川と井戸と、山の緑に支えられてきた。
したがって、筆者の 言うように、ナイル川の水の うまさを有難がっている 著者の言うことなどは、信用出来ないという気になってくる。
ということで、私はこの著作を読む前から、不信感に陥っていた。
だが、この著作全体を 批判することは 正しくなかろう。 ヨーロッパ各国が 抱えている 「水問題」 として読めば、かなり革新的な著であることは 間違いない。 しかし、著者が最後に言わんとしている 「世界の水事情」 は、かなり間引きして読む必要がある。
この著書で面白いのは、第2章の 「古代の水文化に対する 再発見」 と、第4章の 「水と健康」 と、第7章の 「飲料水ビジネス」。
その中で、面白いと思った第2章を中心に、紹介したいと思う。

古代文明は、水源の周辺‥‥つまり川を中心に 発展した。 人間にとって、単に 飲料水だけではなく、洗濯する場所と、清潔な身体でいるためには、身体を洗う 新鮮な水が不可欠であることを知っていた。 ほとんどの古代都市は、川の近くで発展した。
例外もある。 例えば インカ帝国。 給水源が期待したほど近くにない場合は、遠方の泉から首都のマチュピチュまで、水を運ぶ技術を開発させねばならなかった。
ご存知のように、マチュピチュは標高2130メートルの驚くほどの高地にある。 そこまで水を運ぶには、傾斜する水路や水汲み場、段々畑を複雑に組合わせて、広範囲に 水を行きわたらせる必要があった。
きれいな水を確保するために、さまざまな技術や社会習慣を発展させた文明もある。 古代エジプト人が墓所に彫った絵から、水から不純物を取除く高い技術力が見てとれる、という。
また、紀元前200年の古代メソポタミア人は、公衆衛生に関する 法律を作ったという。 それよりも重要視されたのは、汚染源となる墓地や なめし皮工場、食肉処理場は、ため池や井戸から遠く離された。

しかし、今日でも驚嘆させられるのは、非常に複雑で入組んだ水管理システムを持っていた 古代ローマ。
歴代のローマ帝王は、清潔な水の重要性を心の底から理解していた。 そのため、帝国の主要都市に飲み水を供給けする壮大な水道橋システムを、奴隷を使って建築したことは 誰でも知っている有名な話。 ローマの町には9本の水道橋で水を運び、都市の周辺に貯水池や 水路、飲料用の公共噴水を作って、効率的に貯水と給水を行った。
イギリスは、ビクトリア朝後期に、やっと近代的な給水システムの基礎が築かれた。 しかし、手本になったのはどこまでも古代ローマ。 何とかして古代ローマを参考にして、その偉業を越えようと奮闘したエピソードは、今も語り継がれている。
産業革命の全盛期の1870年に、イギリスのクォータリー・レビュー誌に、ある作家の 19世紀の給水技術とローマ時代の技術を比較する以下の記事が記載されたという。
「現在見られているもっとも重要な進歩の一つが、飲料水の供給と公衆浴場の建設。 ローマでは膨大な費用をかけて 地方の都市ではもちろんのこと、個人の別荘の浴場でも水道が引かれたことが遺跡で見られる。 これは、19世紀のロンドン以上と言わねばならない‥‥」 と。

ローマ時代は、飲料水はカネを払って買うものだった。 一部の成金は別荘にまで浴室を引くことはできたが、それには 「水税」 がかけられた。 一般大衆は、町のあちこちにある底の浅い水盤から、タダで自在に水を得ていた。
ローマ帝国が崩壊したのは、この公共の水供給システムが破壊されたから。
したがって、どんなにローマ帝国がすぐれたシステムの上に成立っていたかが、うかがい 知らされるところである、という。イアン・ミラー著 「水の歴史」 (原書房 2200円+税)


いま、世界的に「水の危険が」が叫ばれている。
その、「今日的な問題に焦点を当てているはず‥‥」と考えて、借りてきて読んだ。
ところが、内容はどこまでもヨーロッパが中心で、人口が爆発的に増えて水飢饉が問題視されているアジア、中東、アフリカについての記述がまったくない。 
これは、あまりにも一方的で、今日的な大問題を等閑視しているイギリスの出版らしいと諦めざるを得なかった。
著者は、イギリス領のアイルランド問題に詳しく、「胃の現代史」 や 「飢餓後のアイルランドの食糧改革」 などの著作などがある。 つまり 「食のプロ」 が、水問題にまで手をひろげてきたということらしい。 しかも、ヨーロッパだけの知識で‥‥。

筆者が言うように、古代文明は川の周辺で発展した。 チグリス、ユーフラテスなどは、小学生の頃に学んだこと。
エジプトのフランス総領事のマイエ氏が、ナイル川の水を飲んで、「たぐいまれにみるおいしさだった」 と語ったと、著者はそのエッセイを紹介している。
「初めてナイル川の水を飲んだ人は、まるで芸術品だと思うだろう。 えも言われぬほど 口当たりが良く、心地のいい味なのだ。 この水には、シャンパーニュ地方のワインと 同じランクを与えるべきである」 と。
これを読んで、私は吹きだした。 ヨーロッパの人々は、よっぽど不味い水道水しか 飲まされていないのではなかろうか。 私は 感覚が鈍感なせいか、それほど ヨーロッパの水道水は、不味いと感じたことがない。 もしマイエ氏が、みどり豊かな 日本の井戸水とか 岩を流れる水を飲んだら、一体何と言っただろうか?

最近の都市生活者はともかくとして、ほとんどの日本人は、井戸水や岩を流れる水を手で掬って飲み、「アヽ 甘露、甘露」 と褒めそやしてきた。
ナイル川の水を飲んで、「たぐいまれなおいしさ‥‥」 などと叫ぶ日本人は いないだろう。 それほど、日本人はおいしい水に育てられてきた。 おいしい水が絶えなく降る雨水に守られ、何万本もの川と井戸と、山の緑に支えられてきた。
したがって、筆者の 言うように、ナイル川の水の うまさを有難がっている 著者の言うことなどは、信用出来ないという気になってくる。
ということで、私はこの著作を読む前から、不信感に陥っていた。
だが、この著作全体を 批判することは 正しくなかろう。 ヨーロッパ各国が 抱えている 「水問題」 として読めば、かなり革新的な著であることは 間違いない。 しかし、著者が最後に言わんとしている 「世界の水事情」 は、かなり間引きして読む必要がある。
この著書で面白いのは、第2章の 「古代の水文化に対する 再発見」 と、第4章の 「水と健康」 と、第7章の 「飲料水ビジネス」。
その中で、面白いと思った第2章を中心に、紹介したいと思う。

古代文明は、水源の周辺‥‥つまり川を中心に 発展した。 人間にとって、単に 飲料水だけではなく、洗濯する場所と、清潔な身体でいるためには、身体を洗う 新鮮な水が不可欠であることを知っていた。 ほとんどの古代都市は、川の近くで発展した。
例外もある。 例えば インカ帝国。 給水源が期待したほど近くにない場合は、遠方の泉から首都のマチュピチュまで、水を運ぶ技術を開発させねばならなかった。
ご存知のように、マチュピチュは標高2130メートルの驚くほどの高地にある。 そこまで水を運ぶには、傾斜する水路や水汲み場、段々畑を複雑に組合わせて、広範囲に 水を行きわたらせる必要があった。
きれいな水を確保するために、さまざまな技術や社会習慣を発展させた文明もある。 古代エジプト人が墓所に彫った絵から、水から不純物を取除く高い技術力が見てとれる、という。
また、紀元前200年の古代メソポタミア人は、公衆衛生に関する 法律を作ったという。 それよりも重要視されたのは、汚染源となる墓地や なめし皮工場、食肉処理場は、ため池や井戸から遠く離された。

しかし、今日でも驚嘆させられるのは、非常に複雑で入組んだ水管理システムを持っていた 古代ローマ。
歴代のローマ帝王は、清潔な水の重要性を心の底から理解していた。 そのため、帝国の主要都市に飲み水を供給けする壮大な水道橋システムを、奴隷を使って建築したことは 誰でも知っている有名な話。 ローマの町には9本の水道橋で水を運び、都市の周辺に貯水池や 水路、飲料用の公共噴水を作って、効率的に貯水と給水を行った。
イギリスは、ビクトリア朝後期に、やっと近代的な給水システムの基礎が築かれた。 しかし、手本になったのはどこまでも古代ローマ。 何とかして古代ローマを参考にして、その偉業を越えようと奮闘したエピソードは、今も語り継がれている。
産業革命の全盛期の1870年に、イギリスのクォータリー・レビュー誌に、ある作家の 19世紀の給水技術とローマ時代の技術を比較する以下の記事が記載されたという。
「現在見られているもっとも重要な進歩の一つが、飲料水の供給と公衆浴場の建設。 ローマでは膨大な費用をかけて 地方の都市ではもちろんのこと、個人の別荘の浴場でも水道が引かれたことが遺跡で見られる。 これは、19世紀のロンドン以上と言わねばならない‥‥」 と。

ローマ時代は、飲料水はカネを払って買うものだった。 一部の成金は別荘にまで浴室を引くことはできたが、それには 「水税」 がかけられた。 一般大衆は、町のあちこちにある底の浅い水盤から、タダで自在に水を得ていた。
ローマ帝国が崩壊したのは、この公共の水供給システムが破壊されたから。
したがって、どんなにローマ帝国がすぐれたシステムの上に成立っていたかが、うかがい 知らされるところである、という。


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