2016年05月20日

大規模災害時の危機管理体制は、どこまで進んでいるか?


鈴木哲夫著「期限切れのおにぎり」(近代消防社 1500円+税)

写真期限.JPG

何の気なしに手に取った本。 
東京直下型地震が起こったら、一体どんなことになるのかと考えさせられた。 いや、東京だけではない。 現に熊本は震度7の直下型地震に2度も襲われている。
そして、これはなにも熊本に限った現象ではない。 四国でも、中国地方や近畿、北陸、中部、関東、東北、北海道でも 地震国日本では、どこでも熊本なみの被害が起こり得ると考えるべきなのだろう。 そして、消防所や自衛隊だけではなく、地方の自治体が自由に対処出来るるように法体系を整備するだけでなく、予算的にも対応できるようにしてゆかねばならない。
筆者は、2011年の東日本大災害だけではなく、阪神淡路や中越地震のトップ10人から いろんな意見を聞き出していて、非常に参考になる。
それらの全てを紹介したいのだが、紙面の関係上全員の意見を紹介することは出来ない。 その中でも代表的な3氏に絞って、ポイントになる話題を紹介したい。

●東日本大震災で、消防団員の234人が殉職者   久保信保元消防庁長官
消防は、東京都をはじめ各市町村長の管理下に置かれている。 予算も各自治体によって措置、運営されている。 阪神淡路大震災の折に、これでは緊急時には国の統一したラインのもとでの消防活動が出来ないことが分かり、緊急消防援助隊が出来た。
しかし、国の予算は200億円に過ぎず、大部分の1兆9000億円の地方自治体にオンブしている。 指揮命令系統も、また任命権も各自治体の長にある。 緊急消防援助隊といっても、予算措置や命令系統がハッキリしない。 その中で、東京都をはじめ地方自治体が積極的に協力して頂いたので、何とか東日本大災害は乗越えられた。
しかし、消防というのは、災害が起きた時に10人がいたら、全員が第一線で戦う という仕事振りを求められている。 軍隊なら半分は前線だが、残りの半分は後方支援。 このため 東北大震災では234名も殉職者を出したのが消防団員。 何しろ、原発まで仕事が回ってきた。
原発というのは、東電などの手に負えるものではない。 本来は 次の2つのことが、守られるべきだと思う。
1つは、国の組織として 『特殊消防隊』 と言うような新組織を作ること。 もう1つは、もし現在の形で行うとしたら、原発など国家事業に取組む消防団員を、国家公務員の資格者にすること。
でないと、あとあとの放射能治療が、うまくいっていない。 この2つが絶対の条件だと思うが、のどもと過ぎれば何とかで、いまだに未整備。 これは大変に残念なこと。
さらに、東京直下型地震が発生した場合は、倒壊した瓦礫などで車で被災地に近付けない。 どうしても、ヘリコプターで 『空』 を使うしかない。 そうなれば ヘリが圧倒的に足りない。 予算的な処理も問題だが、自衛隊との話合いを早急に行う必要がある。
それよりも必要なのは、住民の意識改革。 「自分の命は、自分で守る」 という自主防衛意識。
隣近所と一緒になり、自らを自分を守ろうとする意識と行動。 現在、全国に15万を超える自主防災組織があるが、多くの住人はその組織の実態を知っていないと思う。
消防に出来ることは、そうした 自主的な防災組織との連絡を密にとって、避難場所の再確認と再選定を行うこと。

熊本の例を見ても、法整備が遅れていることが納得出来る。
と同時に、直下型の地震対策として、地場の自主的な防災組織の必要性が再確認させられた。 私は今まで個々の住宅の地震対策や防火対策のみに力点を置いてきた。 地場ビルダーとしては当然耐震性や防火性に力を入れるべきだが、地域の自主的な防災組織にも 注力を注ぐべきだということが骨身に染みた。 そういった主張に沿った運動を、これからやって行くべきだろう。

●原発では、中央の司令塔を一本化出来なかった   先崎 一自衛隊初代統合幕僚長
陸海空の統合幕僚を作る準備をしている時、スマトラの地震が起こった。 このため、陸海空の部隊が初めて統合組織で情報を共有して、スマトラ災害支援活動が出来た。 この経験があったので東日本大震災の際でも、統合組織で連携して地元の人々から歓迎を受けて 災害支援をキチンと行い、機能を果たせた。
やはり何と言っても大きかったのは、スマトラも東日本大震災の場合も、アメリカ軍と 共同で仕事をやったことだと思う。 アメリカは世界を 5つに分けてそれぞれのエリアも災害に対応している。 スマトラの時は、沖縄の司令官がトップに立って、空母などを含めて 1万数千人を指揮下に入れ、情報も一元化して災害に当った。 日本の統合組織もその情報を共有。
今回の東日本大震災の場合は、横田基地内にアメリカ軍のスタッフが 200~300が入って、有事の展開部隊を作ってくれた。 このオペレーションの名は「ともだち」と名付けられ、日米で全ての情報を共有し、順即に対応が出来た。
それと、初動は素晴らしかった。 これは、阪神淡路や中越地震での教訓が活かされたせいだと思う。 具体的には、毎年東北地方の自治体と自衛隊が 一緒になって訓練をやってきた。 この訓練の中で自衛隊の仕事の内容を理解され、お互いに信頼関係が築かれてきたことが大きい。
自衛隊の派遣要請は知事が行う。 岩手県の場合は 6分後だったと聞いているし、宮城県の場合は16分後だったと聞いている。 信頼関係があったからだ と思う。
それと、これはあまり知られていないことだが、各県庁には自衛隊のOBが 防災担当官として出向している。 その仕組みがあったので、パイプ役のOBが 「自衛隊をどう活用したらよいか」 について、貴重なアドバイスが出来たことも大きかった。 地方自治体と一体になって災害に対応できるという形が、出来上がってきた証左だと言えよう。
自衛隊員は10万人近くいるが、防衛警備、国際協力、PKOなどもあって、現場へ投入出来るのはせいぜい50%近くでしかない。 具体的な仕事としては人命救助、遺体の捜索、避難所への給水・食料の供給、仮設の風呂、衛生・医療の支援、道路・橋梁の建設など。
胸まで水に浸かり、水中で瓦礫と戦いながら日に平均80遺体を収容していた。 遺体の中には幼い子供も多い。 このため若い隊員はショックを受け、ギリギリの精神状態になるが交代要員もいない。 隊員のメンタルヘルスをどうするかが大問題に。

それよりも問題になったのは、原発に対して 国家として自衛隊が何をすべきかが明確でなかったことが最後まで影響した。 自衛隊の中には 化学防護の専門部隊がある。 この専門部隊でやってきたのは、検知、住民の避難誘導、放水、放射能の測定と除染。 専門部隊が表に出たので、中央の司令部が最後まで一本化が出来なかった。
原発のために 自衛隊が一元的にコントロール出来なかったことが、最大の課題として残された。

●賞味期限切れのおにぎりをどうするか   森 民夫長岡市長
ご案内の通り、長岡市は2004年の中越地震で 壊滅的な被害に遭っている。 その時のお礼も兼ねて、東日本大震災の折には、黙って1000人の原爆被災者を受入れている。
1000人中には、最高97歳という人もおれば、車イスの人も、妊娠9ヶ月という妊婦も いる。 こんな人を一つの体育館に過ごさせるわけにはゆかない。 長岡市は、体育館での避難で貴重な経験を持っている。 幼い子が夜泣をするので、母親は周囲に気を使ってストレスが溜まって倒れた前例や、着替えが出来ない女性や授乳などにも対応してきた実績がある。
1000人を受入れる細部対策も、おろそかには考えていなかった。
また、個人から支援を全部断った。
全国の良心のある人々が、一つの箱にトイレットペーパーから肌着、離乳食まで入れて送ってくる。 それを分類するだけの職員がいない。 手が足りないので何万箱も 倉庫に保管されたまま。 したがって、森市長は勇気をもって個人の支援を断った。
個人から個人へ送るのには問題がない。 どうしても、役場へ送りたいと考える人は、地元の役場で分類して貰って、送るようにして欲しいというのが、被災地の実態。 それを知ってもらうために、敢えて個人支援を全面的に断った。

それと、避難所でいつも悩まされるのが食中毒。
困っているからと、いろんな食料品が次から次へと届けられる。
しかし、夕方届いたものは、その夜のうちに全部に配れる訳がない。 長岡市の場合は 125ヶ所に配らねばならない。 その日の夜に配れるものと考えて、わざわざ「真空パック入りの温かいおにぎり」 が送られてきた。 翌日まで持たないと判断した市長は、全部を廃棄処理にした。
それを、「善意が廃棄処理された」 とジャーナリストが書立てたことがある。
もし、集団食中毒事件が起こったら、それこそジャーナリストの好餌どなっていたろう。
また、行政は常に 「公平性」 が一番大事。 不公平性は出来るだけ慎まなければならない。
しかし、非常時には 「公平性を無視してもよい」 と言うのが長岡市長の持論。
非常時に、公平にやろうとすると、やたらに時間がかかって、対策が取れなくなってしまう。
例えば、ある避難所で問題が起きたと仮定する。 解決するために即時に職員を派遣したりすると「なぜ、あの避難所だけを特別扱いするのか‥‥」 との批判が出てくる。 今 直面している問題解決のためには、リーダーの責任で不公平になることも選択しなければならない」。 つまり、批判を覚悟して、「不公平」 を実行する判断がトップに求められる。
そういった非日常的から遊離した判断を下せないと、何も進められないことになってしまう。




posted by uno2016 at 07:21| Comment(0) | 書評(その他) | 更新情報をチェックする

2016年05月10日

JAL (日本航空) の再建を巡って奮闘するお馴染の半沢直樹 !



池井戸潤著「銀翼のイカロス」(ダイアモンド社 1500円+税)

銀翼.JPG

東京中央銀行営業2部の次長・半沢直樹氏を主人公にした 「半沢直樹シリーズ」 は、2年前のTBS系テレビ 日曜劇場で放映済みのもの。 第1弾の 「オレたち バブル入社組」、 第2弾の 「オレたち花のバブル組」、 第3弾の 「ロスジェネの逆襲」 の3冊は読んでいた。 ところが 第4弾となった2014年の作品 「銀翼のイカロス」 は、連載中の週刊ダイヤモンドをふくめて 読んではいなかった。 全くもって反省ごと。
新刊の小説の中には、なかなか面白いものが見当らない。
やむを得ず古い作品を漁っていたら、幸田真音の 「ランウェイ」 (上)(下) と 「スケープゴート」 と、この作品の4点を発掘することが出来た。 個人としての情報収集の限界を示している好例と言って良かろう。 ともかく私個人としては、資料を集めることと、集めたものを読破することに、限界を感じている。
イカロスというのは、ギリシア神話に出てくる話。 
ミスノ王によって牢獄に繋がれた父と子。 人工翼を作って脱獄するのだが、父親の忠告を無視した子の操縦士が、太陽に接近し過ぎて翼が溶けてしまい、エーゲ海に墜落してしまう物語。

しかし、この物語では主人公が墜落するどころか、最後まで主張を貫いて生きている。
当時の民主党は 「殿様商売をしていて、再三問題を起しているJALではあるが、ここは 銀行に泣いて貰って債権を放棄してもらう以外には救済の道がない」 という党の方針に従い、新任された国交省の女性大臣は 法的根拠がないのに 「タスクフォース」 を設立し、及原弁護士をリーダーに据えた。 
ここから、この小説はスタートしている。
一方、JALを根本的に救うには、「今までの開銀の動きに同調している融資部を窓口にしていたのではラチが明かない」 と判断したのが、東京中央銀行の中野頭取。
なんと窓口を営業第二部へ移し、JAL問題を 半沢直樹次長の支配下に置いた。 置かれて迷惑をしたのは半沢次長。 前政権下で 東京中央銀行が500億円にも及ぶ債務放棄をしなくても、なんとか 大幅のリストラによるコストカットで、JALが自力で再スタートが出来る絵を書いて、これを公的に認知させた。
そこへ、登壇したのが民主党の新政府。
JALは、その高額収入にふんぞり返っている企業体質にメスを入れることなく、いたずらに前政権のあげ足取りが目的。 赤字路線を改善することなく、「国民のため」 と言う 欺瞞的な言動で民主党案の強行突破を図った。

最初に開かれたタスクフォースの会議で、その設立の法的根拠を 半沢から指摘された女性国交省大臣は、まともに答えられず、「JALの社会的な存在意義を力説して、民間銀行が債務放棄に協力するのは当然のこと」 と一方的にまくし立てた。
これに対して、半沢は 「冗談ではない。500億円もあったら、どれだけの中小企業を 救えることかを考えて頂きたい。 JALという半官半民の企業が、自らのリストラで 問題を解決しょうと考えて、広く国民の支持を得ている。 それなのに、一方的に銀行側だけに債務を放棄せよと言われることには、スジが通らない」 と反論。
もちろん、民主党側から明快な回答は得られなかった。
私は、単なるアンチ民主党論者ではない。 議論すべきところは正しく議論し、銀行側に問題点があるなら、堂々と主張すべき。 しかし、JAl問題では、銀行側でなくJAL側により問題点が多かったのは事実。 したがって、一方的に銀行側を責めることには、当時から納得出来かねた。

一方、タスクフォースのリーダーに選ばれた及原には、開銀と共に東京中央銀行に債権500億円を放棄させる自信があった。
というのは、かつて小沢一郎と思わせる政治家への不正融資・マネーロンダリングに 東京中央銀行の紀本常務が、深く関わっていた事実を知っていたから‥‥。
空港の新設情報を知って、小沢代議士か20億円を投じて空港になる予定土地を買い占めて、巨額の利益を上げていた。 その事実をバラすと紀本常務を脅かせば、500億円の放棄は 拒否できないという目論見。 当然、このタスクフォースを成功させることにより、「弁護士・及原が有名になり、次々と相談がくるようになる」 というのが読みの底に潜んでいた。
同時に、金融庁の検査官にも手を回し、東京中央銀行に対して 査察を行い、「債権放棄に協力しないと、とんでもない事態になるぞ」 との脅かしも仕掛ている。

半沢次長は、紀本常務を通じて無担保に近い形で20億円という融資が、過去に 小沢一郎に行われていたことを発見。 しかし、その融資の詳細を書いたファイルが行方不明。 おかしげなことだと調べたが、どうしても詳細が分からない。
だが、紀本常務の部下が融資担当者になっており、しかもファイルは その部下が管理していたことが判明。 そこで、旧知の検査部・富岡に探ってくれるように依頼。
富岡は、紀本常務が小沢一郎への不正融資・マネーロンダリングに関与していた資料を発見して 半沢次長に報告するとともに、旧知の中野頭取にもその資料を渡している。
この結果、民主党が計画したJAL再生タスクフォースは瓦解に瀕するとともに、小沢は離党し、女性国交省の大臣も辞任することになった。

そして タスクフォース最後の会議に、中野頭取が出席して、「500億円の債権は放棄します」 と
演説するはずであった。
ところが開銀の谷川氏の尽力により、開銀が債権放棄をしないことが明確になり、中野頭取の代理で出席した半沢次長は、声を大にして「東京中央銀行は、一切債権の放棄と言う愚挙は致しません」 と明言した。

その後のJALの再建は、皆さんもご存知の通り。
私は、今更ながら半沢次長のことを褒める気はしない。 
しかしこの解決を機に、紀本常務と共に頭取職を辞職した中野頭取の英断には、心から拍手を送りたい。


posted by uno2016 at 13:01| Comment(0) | 書評(その他) | 更新情報をチェックする

2016年04月10日

一番難しいイチゴの無農薬・無肥料に挑んだ野中夫妻の無謀



田中裕司著「希望のイチゴ‥‥最難関の無農薬・無肥料に挑む」(扶桑社 1000円+税)

005.JPG

今年の2月25日付の この欄で、上部一馬氏の著作 「スーパー微生物農法」 を紹介した。 「除草剤や化学肥料が不要の神谷農法をご存知ですか?」 と。
そしたら、自ら農業をやっているT氏からメールが入った。
「信じられない内容なので、神谷成章氏で調べたが 一つもヒットしない。 特許関係でも応答なし。 unoさんが紹介するのだから間違いはないと思うが、unoさん自身の信用にも関わるのではないかと心配‥‥」 と書いてあった。
昔から新しいもの好きだった。 だから記者という仕事は体質が遭っていた。 だが、「私の書いた記事で、絶対迷惑をかけてはいけない」 ということは肝に命じていた。 したがって 上部氏の記述内容に疑問を感じ、事前に神谷成章氏を、出来る範囲内で調査していたのは事実。
開いたネットで 「神谷成章」 でヒットしたのは90件弱。 その中で否定的な意見は皆無。
中でも、大下伸悦氏が 「冬の農地が凍らない」 という著書を 日本文芸協会から出版し、さがみのクラブなどでは神谷氏を動員して講演会などを行っている。 この文芸協会が若干怪しいと感じたが、この著作は読んでおらず、「マガイモノ」 と断定するわけにはゆかず、奥歯に物が挟まったような表現になった経緯をT氏に伝えた。
その後においても微生物農法については、確信は得られていない。

そんな経緯があったので、「イチゴで世界で初めて無農薬・無肥料栽培に挑戦した記録だ」 と言われても、簡単には飛びつけなかった。 しかし、何回も読返しているうちに 「これは本物だ」 と確信した。
この物語の中心人物は、野中慎吾・浩美夫妻。 スーパーに有機野菜を売込んでいるオイスカ (国際NGO) が経営する農業専門学校の同期生。 地元の茨城で 浩美さんが有機用の農地を借りたいと町の農政課に相談に行ったが、「すぐに有機栽培をやってみたいと言う人に貸してくれる土地などはありません」 と、門前払いにされた。
その時、慎吾は豊田市の老舗の食料スーパー・やまのぶの山中会長に会って「今日限りでオイスカを辞めます。いろいろお世話になりました」 と 挨拶に参上したのが2006年の年末。
山中会長は、25年前から 「有機野菜」 を扱っていた。 近くにオープンした 健康食品店を視察したら、高かった。 しかし、当時は情報不足。 どこから手を付けて良いかが分からなかった。 そこで、田舎の 「野菜の無人販売所」 を視察。
「無人販売所」 へ置いてある野菜には、2種類があることが分かった。 1つは、市場へ出荷した後の残り物。 もう1つは、年輩者が裏庭で残飯などの有機肥料で作っている自家用野菜の余りもの。 そして、年輩者に聞いてみると、「自分のところで 食べる野菜だから、農薬や化学肥料は一切使っていない」 と断言。 試めしに、そうした野菜を買ってきて食べて見ると、旨い。「これだ」 と思い、その足で自家用の農家を訪ねて 直接仕入れて、「ごんべぇの里の野菜」 を夏場2~3ヶ月の限定商品として売出したところ大好評。
そして、野菜だけでなく、コメも無農薬・無化学肥料の有機栽培にしたいと、3年前から 全私財を投じて 「農業生産法人・みどりの里」 を立ち上げたいと 計画していた。 しかし、自分は歳なので、若手を探していたところ。 飛込んできた野中慎吾青年はまさにうってつけ。
「私と一緒に農業生産法人を作ろう。 そして、自然栽培のコメを作ろう。 みどりの里の初代責任者は君に任せる。 ただし、1つだけ条件かある。 それは、1年間秋田へ行って、コメの自然栽培のコツを学んでくること!」

山中氏が紹介したのは、秋田県大潟村で約20町歩 (約6万坪) の田んぼで 自然栽培の良質のササニシキを作り続けるコメ作りの達人・石山範夫さん。
地平線まで広がる田んぼを見て、まずそのスケールの大きさに驚いた。そして、石山氏は全ての田んぼを有機栽培から 自然栽培へ切替えたばかり。 それだけでなく、慣行栽培のコメ農家と変わらぬ収穫量をあげ、安定した収入を得ていた。
石山氏は「無農薬栽培で収穫できれば、それでよし」 とは していなかった。 「質」 の面でも非常にこだわり、作るだけではなく販売、営業面の細部までミスが生じないように配慮している。 さらに時間のムダを省き、無借金で事業を成し遂げていた。
こうした総合力があったから、自然栽培でも有利な展開が可能になっていた。 慎吾氏は 「無農薬栽培だと、小規模であってもやむを得ない」 とそれまでは考えていたが、これがとんでもない甘い考えだったと悟らさせられた。
この石川氏は、未婚の浩美さんを一緒に研修を受入れるのを嫌った。 このため、07年の1月に結婚式をあげて入籍し、2月には山中氏に見送られて、大潟村の研修には2人で加わった。
石山氏の研修は厳しいものだった。 2人は石山氏の表裏のないひたむきな人間性に惚れ、朴訥な優しさに惹かれて厳しさに耐え、無事1年間でコメの自然栽培を身につけた。

ここで、「有機栽培」 と 「自然栽培」 の違いを説明しておこう。
「有機栽培」 というのは、化学肥料を使わず、草や根っこなどの植物繊維、残飯や 牛・豚・鶏などの糞尿を時間をかけて発酵させてつくる有機肥料を、主な肥料とする 農法。 どちらかというと、「土」 作りに主眼を置く農法。  原則として農薬も使わないが、最低限の農薬の使用は一部認めている。
これに対して 「自然栽培」 というのは 「化学肥料と有機肥料、それと農薬の両方とも使わない農法」 と考えてよい。
「慣行栽培」というのは、従来通り化学肥料と農薬の使用を認めている旧来型の農法。
この違いが分かっていないと、途中で混乱を起すことになる。

こうして、08年から野中夫妻の豊田市における自然栽培でのコメ作りが始まった。
田植が終わり、一段落した時の蕎麦屋に向かう車の中で、山中会長が唐突に次のような提案を2人に行った。
「あんたたち、田んぼをやっていたら冬はヒマでしょう。 どうだろう 無農薬でイチゴの生産に取組んでみたら‥‥」 と。
無農薬のコメ作りの研修を受けたので、今後は無農薬での野菜づくりをやってゆく自信はあった。 しかし、専門学校時代にイチゴの有機栽培に取組んだ時、病害虫にやられた 苦い経験が慎吾にあったので、思わず会長に聞いた。
「本当に、イチゴの無農薬栽培なんて、出来ると考えているのですか!?」
「大丈夫。 私ね、無農薬でイチゴをつくれる肥料屋さんを知っているから‥‥」
どうやら、会長は有機栽培で、化学肥料を使う栽培方法と、自然栽培とを、同じジャンルだと勘違いしているよう‥‥。
それを嗜めようと考えたが、しかしイチゴの無農薬栽培と言う絶好のチャンスを会長はくれようとしている。 心の中では、「イチゴの無農薬栽培など絶対にムリだ」 と分かっている。
「イチゴの無農薬栽培というのは、大変に難しい。 本当にやるんですか?」 と重ねて聞いた。
「やるの!!」
会長の意思は固かった。

会長が指定する肥料会社の担当者とスーパーであって 話を聞いてみた。 そしたら、「イチゴに関しては、そんなに知らない」 と言う。 会長の話とは 全然違う。
しかし、野中夫妻はイチゴに関しては完全な素人。 ともかく、業者の指導を受けながら、迷いながらのイチゴ漬けの生活が始まった。 野中夫妻にとっては、生まれたばかりの赤ん坊を背負って仕事に没頭。 そして半年後の12月クリスマス前の初収穫日を迎えた。
当時のビニールハウスは全部で4棟。 このハウスで咲いた1番花から1500パックを収穫。 市場のイチゴに比べても、見劣りしない甘酸っぱい味。
「無農薬栽培なんて、楽勝。 病気にやられずに出来るんだ!!」
そう思っていたのは年末まで。
年があけて、アブラムシをはじめとする病害虫の猛攻で、事態は急変。 たまりかねた慎吾は、業者に訴えた。
「肥料のやり過ぎで、アブラムシが大量発生しているのではないですか?」
「そんなことない。肥料が足りないからだよ」
「味も悪くなっています」
「肥料が足りないからだ」
「イチゴの色も薄いみたい‥‥」
「それも、肥料が足りないからだ」
何を聞いても 「肥料が足りないからだ」 といって有機肥料を奨める。
「絶対効くのですね?」 と言いながら、チッソ分の多い肥料を施し続けたが、事態は一向に改善されず、2番花からは絶望のどん底へ突き落とされた。
ありとあらゆる病虫害が襲いかかり、回復の見込みはなくなった。
これに対して、肥料業者は 「播いたからすぐ効くモノではない。そんなに虫が嫌いなら 農薬を使え!!」 とほざく。
「農薬を使わずに出来ると言ったのは誰だ!!  もういい。 自分で解決策をみつけるから、2度と口を出さないでくれ!!」
おとなしい慎吾も、堪忍袋の緒が切れた。

コメづくりに関しては、1年間の研修を受けた。
しかし、イチゴづくりは1年と5ヶ月かかると言われている。 その作業工程の全体像が野中夫妻には掴めていない。 そこで、2年目は浩美の紹介で、隣町のコンドウ農園に教えを乞い、イチゴの減農薬栽培で再スタートをすることにした。
コンドウ農園は、暖房も換気扇もないハウス。 しかし、野中夫妻はハウスの内側にビニールのカーテンを張り、夜は内張りビニールを降ろし保温効果をあげたりした。 そして、減農薬を散布したが、1年目の肥料過多地獄から脱することが出来なかった。 また、有機栽培での土づくりの限界も感じた。
2年目はほとんど収益がなかった。
3年目の2010年には、ハウスは9棟に増えていた。 夏にハウスの中を雑草で茂らせて余分な栄養を取り、それを刈り取って思い切って無肥料栽培に取組んでみた。 また食酢と「粘着くん」で、病害虫に立ち向かう方法も確立した。
この年のイチゴはおいしく、山中会長夫妻も喜んでくれた。
07年に秋田へ行った時、「奇蹟のリンゴ」でお馴染みの木村秋則氏のサジェスチョンも受けていたので、青森へ送ったら好評を得た。
無農薬のおかげで 栽培が楽になったし、ハウスからはナメクジやモグラが姿を消した。

そして、4年目の2011年からは、「栄養生長」 とは相反する 「生殖生長」 が、イチゴの味を決めるということが分かってきた。 このためには、イチゴを弱らせねばならない。 しかし弱らせ過ぎると病虫害にやられてしまう。 自然のリズムに敏感に反応し、農作物の状況を 正しく読み取る 「勘」 こそが、イチゴづくりのポイントだと知らされた。

そして、昨年からイチゴの無農薬による苗づくりという最も難しい課題に取組んでいる。 夏の夜温が24℃以下でないと炭そ病に罹ってしまう。これを避けるために2015年には子苗を7月中旬には長野県平谷村へ山上げして、9月上旬に豊田市の畑に戻している。
このため、2015年の暮から16年の5月末までに沢山の美味しいイチゴが採れるはず。

この報告書は途中経過に過ぎないが、イチゴ作りの難しさと醍醐味を語ってくれている。


posted by uno2016 at 15:52| Comment(0) | 書評(その他) | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。